ネガティブはナチュラル、 ポジティブはSUPERナチュラル

ビルほどに夢が大きい男はいなかった。夫の夢はとてつもなく大きくて、ついていけない程であった。夫の想像力は果てしなく、発想は豊かで、可能性を語る前向きさは、まるで両手を広げて語る子供のようだった。しかし、そのキラキラした目が私には眩しすぎて、夫の語る純粋な夢に何度も水を差してきた。そんな私に夫はこう言った。

“You are so natural.” (きみは実にナチュラルだね。)

この世界に重力があるように、人間の思考にも重力がある。そう、それはまさに自然の法則(ナチュラル)である。この世は自動的にネガティブな方へ思考は向かってしまうものだからだ。私はどちらかというと、何事も前向きに考える質ではなかあった。メールを開くたびに何か悪いニュースが待っているに違いないとか(ほとんどが (SPAM) 、飼っている猫が吐くたびに何らかの病気に掛かったのではないだろうかとか(ほとんどが毛玉)、この世は悪いニュースが売れるように、私は真っ先にネガティブを予期する質であった。実際に良いニュースがやってきたとしても、ほんとうにうまくいくのだろうかとせっかくの良い話に闇雲をかぶせたり、うまくいかない理由のリストをいくらでもあげ始める。だから実際に空しい結果に終わると「ほらね、やっぱりうまくいかない。」とかえってホッとする質であった。希望よりも失望を語る私。夫のキラキラしたまなざしとは反対に、私の目はまさに死んだ魚。カリフォルニアのからっとした真っ青な空とはうらはらに、私の心に常に覆い被る雲。その雲を突き刺す SUN LIGHT の如く、GODの息子( SON LIGHT)が私には必要だったわけである。

だからポジティブさは、外から得ることはできないということをいやというほど知っている。旅行や巷のMUSICは一時的にポジティブになれるが、さほど長く続かない。外から得る ポジティブさは賞味期限がある。私は若い頃、山のようにポジティブ思考の本を読んできた。しかし、土台のないポジティブ思考はイリュージョンでしかなく、何か問題がやってくると風船がしぼんでいくように、舞いがった思考は落ちていく。ならば問題に立ち向かえるような強い自分になればいいと、自己開発の本を山にように読み漁ってきた。断食もやったし、呼吸法みたいなこともやってみたし、ヨガ、カウンセリング、ダンス、 ジョギング、whatever~。仙人の如く善を積むことに集中したこともあった。私はそれらに反しているわけではない、多いに素晴らしく健康的で結構である。しかしここで言っているのは、 GOD ぬきで形から入った私にとって、それらは私が GOD にとって十分ではないということを思い知らされることになったということである。だから GOD との sweet なリレーションシップがなかった。私の心は彼の愛を求めていたのだ。そもそも善を積むというのは、「しなければらない」というより、木に実るフルーツのように自然と行動に出るものである( GOD はそのように人間を創造した)。あの頃の善に対するモチベーションが今とは違っていたため、良いことをしていない人や、ちょっと間違ったことをしている人に物凄く意識が向き、イライラした。良い人になろうとしたつもりが、やさしさのない許容範囲が狭い人間が浮きみ出たのである。要するに、内側はそのままであるから、ネガティブさは変わらない。私の土台はGOD(Jesus’ finished work.)ではなかったため、自分の経験から得たぐらつく土台の上に誰かの copy をしようとしていたのだ。自分の経験だけに自信を置くと、何ともプライドの高い人間になるようで、私が経験で学んだのは、うまくいったことが次も同じ方法でうまくいくとは限らないということである。

” You keep him in perfect peace whose mind is stayed on you, because he trusts in you. Trust in the Lord forever, for the Lord God is an everlasting rock.” Isaiah 26:3-4 (ESV)