好かれるよりも、愛される

ビルほどに人の話を聞かない男はいなかった。人の話を聞いているようで聞いていない。相槌を打っているかと思うと、実は眠っていたり、だからと言って嫌味を言うと、今なんて言った?と聞き返してきたり、ある程度の年をとってくると相手が何を言いたいのかはわかってくるようで、聞かなくてもわかることがあるのか、時間節約のためなのか、単なる忍耐不足なのか様々な理由が考えられるが、私は夫と違って聞き上手だった。夫と出会うまでの私は人に喋らせてばかりいた。そうすれば人に好かれると思っていたのだ。しかし、ある日気づいた。ほとんどの話がどうでもよいことで、私が本音を言える隙間もないぐらい永遠と聞かざる終えなかった。まるでコンビニエンスストアのように都合の良い耳になってしまったのである。はけ口を聞くほど疲れることはない。疲れるまでに好かれようとしていたIdentity が不確かだった私は、周囲の意見によっての自分を確立させてきた。だから若い頃は他人に好かれようと非常に時間を無駄にしてきた。私にとって誰もから好かれるというのは、不可能である。なぜなら人の心や気持ちは毎日毎秒と変わるもので、そのときの気分しだいで意見も変わるからである。私にとって最終的に必要なのは、GOD の意見であった。私たち人間の言葉は変わるが、GOD の言葉は変わらない。人の気持ちは変わるが、GOD の気持ちは変わらない。人は変わり続けていくが、GOD は変わらない。他者から好くおもわれたかったのは、自分の無価値さからくる渇望であり、それは他者では決して満たされることはない。他人の意見や反応に拘っていた私を変えたのは、GOD だけである。人は 私を変えることはできなかった。同じく、私も人を変えることはできない。夫はこう言っていた。

” Don’t waste your life being overly concerned about what other people think of you.”  (他人が自分のことをどう思っているか心配しすぎて人生を無駄にしないように。)

GOD は私というたったひとりの人間を創造したわけで、それは他と比べようがないのである。GOD は私たち人間を愛されるべき存在として創造したのである。愛されない存在というのは、創造しなかったわけである。だから GOD が見つめている目で自分を見れば見るほど、私の中での他人の目はパワーを失っていった。気にならないのではなく、そこに意味がなくなったのである。GOD とのリレーションシップを追求すればするほど、他人とのリレーションシップも変わってきた。人に好かれたいという身勝手さからなる自己中心だったため、私の周りは同じような人間が多かった。しかし、Christ がセンターの人生になってから、身勝手な人間が私のもとから去っていったのである。そして彼らが去って困ることは全くなかった。

” No, the Father himself loves you because you have loved me and have believed that I came from God. ”  John 16:27 (NIV)