ビルほどにルールを守らない男はいなかった。まず、立ち入り禁止エリアに立ち入るし、携帯使用禁止というところでもスピーカーで話すし、並んでいる列の横入りどころか先頭に立つ。ある日、教会でのイベントでアイスクリームの無料サービスがあり、そこには小さな子供たちがきちんと列を並んでアイスクリームがもらえるのを胸を高鳴らせて待っていたにも関わらず、夫はすばやく先頭に行ってアイスクリームをいちばん最初にもらったときは、さすがに私は他人のふりをした。だから車の運転なんて、たまったものではなかった。まず、シートベルトは必ず着けない、方向指示器を使わない、にも関わらず車線変更はしょっちゅうで、一方通行の狭いストリートでも、ものすごくゆっくり運転して渋滞を起こす。そのものすごくゆっくり運転する理由が、単に景色を見たいからだったりする。しかし、自分が急いでいるときに前の車がのろのろ運転していると、前の車が脇に寄せるまでクラクションを鳴らす。後ろから車を追い越されると、必ず追い越し返す。後ろからぴったりとくっついて運転する車に向かってわざと急ブレーキをかける。運転中に何か思いついたりすると、運転しながらアイデアを書き留めたり、そうかというと運転中にテキストをしている人に「あぶないよ」と注意をしたりする。助手席にいる私の寿命は何度も縮みそうになったにも関わらず、不思議と夫は事故を起こしたことがなかった。私は運転しているとき、きちんとサインに従うし、ある程度のスピードは守るし、周囲に迷惑が掛からないように配慮をして運転をする。それなのに、車を擦った数は夫よりも遥かに多い。日本で育った私にとってルールを守ることを厳しくしつけられたせいか、私は公共でルールを守らない人を見るといらいらした。しかし、夫はそのルールを守らない人を多めに見る大らかさがあった。ある日、公園で美しい景色を楽しんでいるときに、ルールをやぶって野生の花を紡ぎとっている人を見て、そこに目がいって楽しめなかった。しかし、夫はそんな私に一凛の野生の花を紡ぎとってきて、私の髪に飾ってくれた。それはまるで、今まで目の前を覆っていたヴェールにふっと風が吹かれて新たな景色を見せてくれたような感覚だった。誰が正しいか間違っているかで世の中は図れないことがたくさんある。もしかしたら、公園で野生の花を紡いでいる人はビーチではごみ拾いをしているのかもしれない。彼が見る世界と私が見ている世界は同じだが、視点は違った。世の中には、私が気に障るようなことはいつだってうようよしている。にもかかわらず、その世の中に私はいつだって受け入れられたいと思っていた。しかし、私は一度もそんな世の中を受け入れようとはしなかった。私は世の中に対して完璧さを求めていた。だから、夫に対しても完璧さを知らずのうちに求めていた。しかし、彼は一度も私に完璧さを求めなかった。なぜならば、夫は私が不完全で、完璧な人間ではないことを十分に知っていて、その不十分な私の中に何かきらめくものを見つけては教えてくれた。夫は不完全な世の中にも何かきらめくものを見つける選択をしてきた。そのせいか、夫の目はいつだってきらきらしていた。どんなに美しい景色の中であっても、ごみごみした雑踏の中であっても楽しみを見出した夫。楽しむということは要因ではなく、選択するということなのである。