運命とはGODのプランを生きるということを知らなかった私は、人生とは何かを成し遂げ、獲得するものだとずっと思って生きてきた。だから朝は急き立てられるように目が覚め、今日はどんな問題が待っているのだろうかと身構えて始まる日々は、まるで戦うようにして生きてきた。それは他人と比べることによって自分がどのくらい上なのか、それとも下なのかと自分がいる位置を測るしかなく、焦りはいつだってまとわりついた。頑張る動機が怖れからくるものだったため、どんなに努力してもまだまだ足りないような気がして、満足することはなかった。その古い考えがアメリカへ移ってからも続いた。何だか時間を無駄にしているようで、意味のない焦りと無価値観に惑わされた。内側にある渇きは、生きる目的を満たそうともがいていたのである。しかし、生きる目的が何なのかわからなかった。そんな私に夫は言った。
“Don’t worry about finding your purpose, if you are seeking after God, your purpose will find you.”(自分の運命とか人生の目的がわからなくても大丈夫。GOD を信じ求め続けていたら、運命が君のことを見つけるから。)
しかし、JESUSを受け入れるまでの私にとってのGOD は、私の過ちを見逃すまいと腕を組んで監視しているようなジャッジ的な存在でしかなく、私のことなど後回しにされているような遥か高く遠い存在でしかなかった。私の願いなど長いリスト待ちで、ときに忘れられているような気さえした。だから最初からGODをあてにしていなかった。そのため、自分で自分の問題をどうにか解決しようともがくことを選んできた。その方が手っ取り早いとも思っていたし、それが正しいとさえ思っていた。しかし、夫のGODは私がイメージしているように腕を組んでいるどころか、その手は朝起きた瞬間から、”Good morning, this is God.” と差しのべられているようだった。私が勝手に築き上げてきたGODのイメージが崩れ落ち、その崩れ落ちた先には希望があった。明るい未来へのインビテーションのように差し出された手が、私に受け取られるのをずっと長いこと待っていたようだった。今までその手を跳ねのけるようにして生きてきた。しかし、私は獲得するより、受け取る選択をし、ルールよりもリレーションシップを選ぶことにした。私だけに準備されたGODの計画があるのなら、他人と比べることも、何者かになる必要もない。同じ指紋が存在しないように、そのプランはひとつしかない。私だけに準備されたプランこそが、自分らしく生きるということなのだ。
“And since we have been made right in God’s sight by the blood of Christ, he will certainly save us from God’s condemnation. For since our friendship with God was restored by the death of his Son while we were still his enemies, we will certainly be saved through the life of his Son. So now we can rejoice in our wonderful new relationship with God because our Lord Jesus Christ has made us friends of God. Romans 5:9-11