私の Christian life は見事に失敗から始まった。失敗という言葉を使うのは不適切だが、ほとんどの人が陥るプロセスから始まったと言った方がいいのかもしれない。Christian は、JESUS がクロスで言い終えたように、「It is finished!」つまり、”DONE” から始まるはずが、私は”DOING” にフォーカスしていたのである。例えば、日曜日には教会へ行かなければならない、祈らなければならない、バイブルを読まなければならない、しなければならない “DOING” に陥ってしまったのである。私の心は、JESUS ではなくて、I (我)がセンターになったままだった。要するに、私は心のセンターを JESUS に譲ることができなかったのである。そこで気づいたのだが、Christian になったからと言って、GOD は無理やり私を強いれて変えようとはしないということだった。なぜなら GOD は私たちをロボットではなく、人間 ( human )として創造したわけであるから、自由意志を与えられているのである。バイブルに書かれてあるように、JESUS を受け入れると、HOLY SPIRIT が心に宿り( Romans 8:9-11 )、私たちの心の transform が始まるわけだが、それは何もかも自動的にやってくるわけではない。我が中心であるポジションを 手放さなかったため、内側からの heart transformation がないままの外側 Christian になってしまったのである。私はただの良い Christian になろうとしていた。つまり、GOD の愛を手に入れようとしていたのである。それは獲得することではなく、受け取ることである。何かをするよりも先に、古い自分に戻ろうとするたびに、私は GOD に非常に愛されているということを自覚する証であるJESUS を見上げることを選んだ。JESUS がクロスで終えたおかげで、私には彼の BLESSINGを受け取ることが可能になったというFAITH が生まれた。そうして少しずつ本来 GOD がデザインした私になり始めることができたのである。今は日曜日の朝になるとワクワクする。教会に”行かなければならない”、から”行きたい”に変わったのである。”祈らなければならない” のではなく、それは会話のように生活の一部になったのである。祈りも beg から receive の姿勢になったのは、この祈りを聞き入れて、拒絶されることなく、GOD が既に動き出しているという信頼。どのような結果にしろ、私にとって良い結果になるという感謝。バイブルは本のように読むものではなく、かみしめるものになった。生きた GOD の言葉は、何度読んでも違う結果で終わる Never ending story 。バイブルは読む者から REVEAL されるのを待っているのだ。それは暗闇に射すランプのように一歩ずつ明かされ、分かっていくことがある。まるで父親が愛する我が子を迷わぬように導くように。
” You however, are not in the realm of the flesh but are in the realm of the Spirit, if indeed the Spirit of God lives in you. And if anyone does not have the Spirit of Christ, they do not belong to Christ.” Romans 8:9 (NIV)