ビルほどにキャラクターの強い男はいなかった。スキルは誰かを見習って身に着けていくものだが、キャラクターというのは、誰かになろうとするのをやめることである。誰かになろうとするのは、自分を拒否しているのと同じで、自分を受け入れていないということである。キャラクターは自分を出すよりも、受け入れることで確立していく。正直言って夫には何のスキルもなかった。経験はあるが、何かひとつに絞って身につけたものはない。しかし、集中力は並ではなかった。長い文章をすらすらと書けるし、一度何か書き始めると、3時間は止まらない。彼はとにかく話すことと、書くことが好きだった。何を書いていたかというと、何でも書いていた。報告書から手紙、苦情、ビジネスプラン、見積書、ストーリー。レストランでも浮かんだアイデアをナプキンにすらすらと書いたりしていた。書き手だった私にとって、それはうらやましいほどの集中力であった。集中力というのは、若さには関係ないということを夫を通して知った。実際に私は若いときにすらすらと書けていたわけではない。書く前の葛藤している時間の方が書いている時間よりも遥かに長い。だから書くのが楽しいかというと、もちろんそうではない。書くのが楽しいと言っている人のアドバイスを聞きたいぐらいである。しかし、書き始めて集中力の波に乗ると疲れるどころか、エナジーが活発になる。それが楽しいと表現するのかもしれない。好きなことを仕事にしている人のほとんどが、キャラクターが備わっていることに気づくだろう。スキルはそうでもないのに、好きなことを仕事にしている人というのは独自のキャラクターがある。そのキャラクターが人とチャンスを惹きつけるのだが、チャンスにはチャンレンジがつきものでる。そのチャレンジを通り抜けるとき、本来備わっていた今までに発見されずにいた能力が出てくる。今までよりも少しだけ何かができるようになると同時に、その人独特のカラーも出るようになり、顔つき、考え方、話し方、歩き方までにそのカラーが現れる。ここでいうキャラクターが確立している人というのは、セルフセンターではなくなるということだ。セルフセンターというのは、「私」が他人にどう思われているか、「私」が周囲にどう見られているか、私が、私が、、、、と「私」が中心の世界にいて、皆に好かれたいという自分を守るためのキャラクターである。私もそのひとりであった。まずは自分は誰に認められ、誰に受け入れられようとしているかである。結局はその誰かになろうとしているのではないだろうか。自分のキャラクターを生かすには、多少の批判は当たり前である。キャラクターというのは、少々タフになるぐらいがちょうどいい。年が経つにつれてキャラクターが変わったと言われてもおかしくはないのである。そもそも人を惹きつけるのは、結局は見た目よりもキャラクターである。見た目の惹きつけはそう長くは続かない。見た目が良いからと近寄ってくる人はいるが、キャラクターやパーソナリティが空っぽだと人は離れていくものである。なぜビジネスでキャラクターが必要かというと、キャラクターとは人に好かれるより、人がついてくるようにデザインされているからである。