平凡ではなく、非凡

ビルほどに平凡という言葉が似合わない男はいなかった。彼に平凡な人生など叶えられなかった。私は日本育ちなので、人の目をものすごく気にする方であった。子供の頃からできるだけ浮かないように努力してきたし、ちらっと隣の人を見て同じものを持っていたりすると安心してきたし、流行っているものはとりあえず着ていたし、周囲と同色になろうと大人しくしてきたし、人の反応に敏感になってきたし、でもその分気が利く子だねと言われたし、他人の言葉によく傷ついたし、人の意見を真に受けてきた。そんな周囲の反応によって造り出されたメンタリティと、本来の創造主であるGODから創られたアイデンティティの間に挟まって動けず、渇望と不信感の生み出す葛藤。希望と恐れの繰り返し。自信がない分、人に嫌われることを怖れていた。

しかし、ビルは全く人の反応に無関心であった。だからかえって私の方が彼の大胆な発言や行動にそわそわすることがあった。人に嫌われることを全く恐れない分、夫は素直だった。その素直さが大胆で、毒舌で有名だった。彼の大胆な発言は人の気持ちを裏返したり、傷つけたこともあっただろう。誤解を招いたこともあっただろう。でも、そこに全く悪気はなかった。独特な雰囲気を漂わせていただけに、夫に近づこうとする者はそんなにいなかった。だから私達はいつも孤立していた。共通の友達もほとんどいなかったし、いつも二人きりだった。どこへ行くも一緒、何をするにも一緒。私達はひとつだった。それで困ったことなど一度もなかった。

二人だけの世界は、小さくて狭いのではないかと思うだろう。しかしその分だけ絆は深くなった。横のつながりには限界があるが、二人の絆の深みは無限だった。私達に横のつながりは、さほど重要ではなかった。夫が逝ってしまった今、友達と思っていた(思わされていた?)人たちはほとんど離れて行ってしまった。私のもとに残ったのはほんの少しである。私にとって大切なのは、夫だった。ビルが私のパートナーであり、家族であり、愛であった。結婚して夫婦になったからといって自動的に夫婦関係がうまくいくようにはなっていない。大切な夫婦との関係に時間と努力を費やすのは、どんな人間関係を築き上げるよりも満たす意味があり、価値があった。彼の痛みは私の痛みで、彼の喜びは私の喜びとなる。夫が非凡ならば、私も非凡な人生を選ぶ。夫があやまちをおかしたならば、ゆるすことを選ぶ。相手を変える努力ではなく、受け入れる努力をしてきた。世間はそんな私達の結婚を批判することもあった。しかし、どんなに良い行いをしても、世間の目はあなたの悪いことろにいくようになっている。だから妻である私が世間とは違う目で夫を見守り続けることを選んだ。愛はあるがままであることを受け入れることであり、愛されることでしか変わらないものがある。二人だけにしか理解できないことがある。二人だけにしか守れないものがある。二人だから乗り越えられることがあり、二人だけが分かち合える喜びがあり、二人だけにしか知らないことがある。夫の夢は私の夢になり、希望はひとつになった。そう、今も私たちの夢は生き続けている。私たちにとって結婚とは、二つがひとつになる物語であった。