Be bold in Him

ある日、私はビルにたずねた。どうすればそんな風に大胆に生きることができるのか。その大胆さは怖れを跳ねのける行為ではなく、まるで自分は十分にあるがままに受け入れられているという揺るぎない確信からなる大胆さだった。そう、夫は人見知りをしたことがなかった。

“How others see you is not as important as how GOD sees you.” (他人が自分をどう見るかは、GODが自分をどう見ているかほど重要ではない。)

しかし、どうすれば自分は完全にゆるされ、GOD からあるがままに受け入れられていると知ることができるのか。私は良いことが起きるとGODから受け入れられていると思うが、悪いことが起きるとゆるされていない何かがあるのではないかというバロメーターによって自分の受け入れられ状態を測ってきたため、過去の何かの悪い報いが返ってきたのだろうかと不安に思うことさえあった。その怖れから大胆に生きることなどできなかった。しかし、夫は言った。

“You can live bold without guilt and fear.”(罪悪感と怖れなしに大胆に生きることはできる。)

もし、あなたが一度も嘘をついたこともなく、人を憎いと思ったこともなく、誰かを傷つけたことなど一度もなく、清く正しく美しく、良い善を自ら高々と積み上げた高潔さで誇り高く思っていらっしゃる方、この記事を読むことは実に時間の無駄である。私は忘れたい過去はあるし、失敗をしたことはあるし、もちろんモラル感はあるがそれだけでは幸運といったBlessing(祝福)を受け取るには足りなさそうで、自分の行いさえよければ良いことが起こるという類の本をたくさん読んで、がんばって自分の正当さを高めてきたこともある。自分の清らかさ、自分のふるまい、自分の正しさ、自分の善意、自分の潔白、自分の、自分の、、、と自分ばかりに目を向けた結果、何を見出したかというと自分の不正義、不十分、不完全さである。どんなにやってもまだ足りない、もっともっと何かを要求されているdemandから、罪悪感と怖れを生み出した。なぜなら、GODの愛を自分の正しさや行いに基づいて得ようとしていたからである。だから私は夫のようにGODに完全にゆるされ、十分に受け入れられているという自信がなかった。そうなるには、たくさんの良い業を積み上げなければならないと思っていたし、もっと正しくもっと良い人にならなければならないと思っていたからだ。そのように、私はいつだって自分の正当さや潔白さを自分自身に指してきた。しかし、夫はいつだってJESUSを指さした。

Because, my righteousness is from Jesus. He purchased it for you at the cross.”(ぼくの正当さはJesusのもので、それは彼が十字架であなたのために購入してくれたんだよ。)

そこがクリスチャンライフのユニークなところで、righteousness(公正、潔白)は獲得していくものではなく受け取るものであり、それは報酬ではなく、ギフト夫自身に基づいた正当さや高潔さや行いではないから(Jesus has done)、鼻高々になることはなかった。それどころか、よその人と自分の正当さを比べたり、他人にも同じ正当さや高潔さを要求することもなかった。そう、夫は大胆だが、心はいつだってハンブル。自分が受け入れられたように、周囲もあるがままに受け入れられる大らかさがあった。だからと言って自分はゆるされたから、「はい、さよなら。」ではない。クリスチャンライフは完全にゆるされたというfinish line から始まるGODと共に歩む新たな冒険なる人生なのだ。そう、まさにJESUSがクロスにてこう言ったように。

“It is finished!”(John 19:30)