Presenting the real (good) God

私が紹介するGODは微笑んでいる。GODの息子JESUSが私やあなたのジャッジを受け入れたのだから完全に許され、受け入れている。その内なる思いを聞いている。あなたが泣いているときは共に泣いている。その痛みを誰よりも知っているからこそ、一緒になって泣いている。あなたが笑っているとき、彼も笑っている。そして彼は思っていたより若くてハンサムである、と付け加えておく。そして何よりも親子関係を望んでいる。本来の運命(彼が計画した運命)を生きてほしいと願っている。何をするにも共に生きたいと願っている。誰よりも何よりも私のことを知っていて、理解していて、受け入れ、認め、愛している。それが私のGODである。

“GOD‘’は、日本語訳で’’神さま‘’なのだが、私が生まれ育ち信じていた”神さま”はキャラクターが全く違い、慣れ親しみがないため、あえてGODと言わせてもらう。私にとっての”神さま”は、宗教性が強く、何か問題に突き当たったときのみ、どうにかしてほしいと最終的にしがみつくような不確かな存在でしかなかったため、最初からあてにしていなかったように思う。”神さま”にとって私は大衆のひとりでしかなかく、私の名前すら知らず、何かとびきり良いことをしなければ気に入られることはないと思っていた。良いことも悪いこともすべて彼からやってくるもので、豊富に受け取ってはいけないと厳しさとハンブル精神を強いられているのだと思っていた。しかし、厳しさは強いられなくとも普通に生きていれば誰もが人生の厳しさに境遇するもので、だからこそ私たちには人を超えた神の助けと導きが必要なのである。本来のハンブル精神とは、JESUSが十字架で私の負を支払ってくれた、だから彼の高潔さが私の高潔であると直に受け取ることが何よりのハンブルである。自分で得た高潔ではないからこそ心底感謝せずにはいられない。JESUSを深く知れば知るほど、人はハンブルになる。それはmotivationではなく、HEART transformation、つまり内から変わるのである。高潔な行動をしようとしても、内側は全く昔のままであるから、どんなに良い行いをしてもお金をたくさん稼いでいる人を僻んでしまう。高価なものを持っている人を羨んでしまう。自分に厳しいだけ他人に厳しく、他人の間違いを許すことができない。ひどい場合は、人の幸せを心より祝うことができないどころか、人の不幸に安堵したりする。それが所詮、自らの高潔である。自分の高潔さは、JESUSの高潔さに比べれば無に等しい。

JEUSUを受け入れ、彼のfollowerとなれば、キャラクターは洗練され、いわゆる良い行いは何のためらいもなく、その人にとってあたりまえの自然なるもので、その姿は実に華麗なるものである。つまり人間本来の生き生きした姿になっていくということなのである。私のGODは、厳しくにらみつけているどころか、微笑んでいつも励ましてくれている。要するに私が信じ込んでいた”神さま”は、ゴシップに過ぎなかったのである。本来の彼は、誰かの意見や想像や経験によってでなく、自ら知るようになっている。それが神とのリレーションシップである。彼はあなたとのパーソナルリレーションシップを心底求めているのである。